アメリカの著名なジャーナリスト、作家。1928年に中國(guó)にやってきた?!妇?一八事変」(1931年9月18日、日本軍は瀋陽(yáng)以北の鉄道の部分區(qū)間を故意に破壊し、これを以て戦爭(zhēng)挑発をはかった。同日夜、中國(guó)駐屯軍を攻撃した。)以降、氏は自ら前線へ取材に赴き、中日戦爭(zhēng)に関する影響力のある報(bào)道を次々と書(shū)いた。特に氏が著わした世界の世論の注目の的となった『中國(guó)の赤い星』は自ら取材したナマの資料をもとに、いかなる政治的偏見(jiàn)や黨派の傾向がなかったこともあって、中國(guó)人民および世界人民の信頼を受けた。抗日戦爭(zhēng)期において、スノー氏は中國(guó)人民の友人として、中國(guó)の事業(yè)を自らの事業(yè)と見(jiàn)なし、中國(guó)の戦時(shí)経済をサポートし、中國(guó)の抗戦の実情をありのままに報(bào)道し、世界への宣伝を精力的に展開(kāi)し、中國(guó)の反侵略戦爭(zhēng)に極めて大きな援助を與えた。氏は貴重な一生を中國(guó)人民の解放のための事業(yè)にささげ、みずからの行動(dòng)をもって、中米両國(guó)人民の間の友情のかけ橋となった。
1937年7月7日、「盧溝橋事件」が起こり、スノー氏は北平(現(xiàn)在の北京)の南苑で中日戦爭(zhēng)の開(kāi)戦を目撃した。日本軍側(cè)主催の記者會(huì)見(jiàn)に參加した際、氏は「どうして中國(guó)の領(lǐng)土で軍事演習(xí)を行うのか、どうして兵士の行方不明を口実に軍隊(duì)をくり出したのか、どうして侵略者として兵営に撤収せず、逆に中國(guó)守備軍を苑平から撤退させるのか」と大きな聲で詰め寄った。この一連の質(zhì)問(wèn)を前にして、日本軍のスポークスマンは大いにうろたえ、直接に答えることができず、記者會(huì)見(jiàn)がこれにして終了することをあわただしく宣せざるを得なかった。
9月末、スノー氏は上海で「8?13淞滬抗戦」(1937年、上海軍民の抗日戦)を目撃した。記事の中で、氏はこの戦爭(zhēng)を「?jìng)ゴ螭蕦g演」とほめ稱え、中國(guó)人の勇敢さおよび戦闘能力は多くの人びとにとって予想を超えるものであったと書(shū)いた。
続いて、スノー氏は日本軍の中國(guó)侵略戦線に沿って、中國(guó)國(guó)土を橫切って漢口、重慶、西安に赴き、また延安をも再訪し、一連の記事を書(shū)いた。
漢口で、氏は破壊を被った中國(guó)の工業(yè)にひどく心を痛め、「日本は収奪した資源と工場(chǎng)を利用して、侵略を大陸部に向って進(jìn)めている」と書(shū)いた。
スノー氏は、最大の資産とはその革命伝統(tǒng)であり、つまりその組織力、粘り強(qiáng)い精神および戦術(shù)だと新四軍をたたえた。
氏は八路軍を英雄的な伝説的存在となったとたたえ、この伝説は1萬(wàn)回にのぼる戦闘の記録の中で、すべての戦う人びとが必ず粘り強(qiáng)さ、敏捷さ、勇敢さ、卓越した指揮力、不撓不屈性および最も重要な精神面での天下無(wú)敵性などの八路軍の戦闘の中での品性を信じなければならないことを物語(yǔ)っている。
すべてのこれらの結(jié)論は、スノー氏が進(jìn)歩的なジャーナリストとしての鋭い洞察力をはっきり示すものであり、それはいずれも1941年に出版された氏の『アジアの戦爭(zhēng)』という本に収められている。
「チャイナネット」資料