第二次世界大戦は、ドイツ、イタリア、日本というファシズム3國家の形成とその対外拡張に源を発している。しかし、ファシズムの抬頭はまた第一次世界大戦以後継続しつづけた強(qiáng)権政治と分離して語ることはできない。1919年、第一次世界大戦を終わらせるため開かれたパリ講和會(huì)議では、初期の帝國主義の弱小民族蔑視と戦敗國の領(lǐng)土分割政策が相変らず継続していただけではなく、列強(qiáng)間でも実力の強(qiáng)弱を規(guī)準(zhǔn)として勝利の果実を分配したのである。その結(jié)果、強(qiáng)権と暴力を崇拝するファシズムは急速に蔓延していった。
ファシズムという名の怪物がこの世に生まれ落ちた時(shí)の最も直接な表現(xiàn)はまさに民族主義的気分の悪性膨張であり、これによって社會(huì)主義と民主主義の力はいやましに大きな打撃を受け、各國家の政権は逐次獨(dú)裁者の手に落ちて、國家権力機(jī)構(gòu)の軍事強(qiáng)化が開始された。1922年ムッソリーニ率いる黒シャツを著た「ファシズム戦闘団」がローマに進(jìn)軍し、イ夕リアにおいて初のアァシズム政権を打ち立てた。その後、ドイツのナチス分子と日本の軍國主義者もすぐに追隨し「民族復(fù)興」の旗じるしを掲げ、國を次第にファシズム化の方向へ押し進(jìn)めていった。
ファシズムに伴なって現(xiàn)われたのは対外拡張である?!干鎱^(qū)間の獲得」と歐亜の新秩序を樹立することをスローガンとして獨(dú)、伊、日3カ國のファシストは早く戦爭の準(zhǔn)備を整えて、各國それぞれ既存の國境線を変えようとし、「大ドイツ」、「大日本」、「ローマ帝國復(fù)興」という領(lǐng)土拡大の夢を?qū)g現(xiàn)しようとしていった。1931年9月18日、久しく中國東北地方が垂涎の的であった日本は、何度かの小手調(diào)べで手答えを試してから、軽率に侵略戦爭を発動(dòng)し、日本の3倍弱もの面積をもつ東北3省を一挙に奪取し、さらに武力を背景にしていわゆる「満州國」を成立させ、東北3省を中國から永久に分割して日本の植民地に変えることを企図したのである。
第一次世界大戦以降、國家間の衝突、強(qiáng)國が弱國を侵犯する事件も頻繁に発生していたが、日本のように大規(guī)模に他國の領(lǐng)土を併合し分割したのは初めてのことであった。日本の罪悪行動(dòng)は、世界平和と世界平和を守ることに対して責(zé)任を負(fù)う國際連盟の威信に手痛い打撃を加えた。しかし、英仏両國を中心とする國際連盟は然るべき制裁措置を迅速にはとらなかった。國際連盟に派遣された英、米、仏、獨(dú)、伊5カ國の政府要員からなるリットン調(diào)査団は、中國が東北の主権を有し、日本の東北に対する軍事的占領(lǐng)の事実を確認(rèn)したが、大國間の利害関係に妨げられ、日本が中國の東北を侵略した動(dòng)機(jī)については「同情の意」を表している。英、仏などの大國のあいまいな態(tài)度は、日本が頼むところであって思う壷であった。國際連盟がリットン調(diào)査団の報(bào)告書を討論する會(huì)議がまだ終わらないうちに、日本軍はついに長城を越え、侵略の矛先をさらに山海関內(nèi)に向けてきた。この後、國際連盟は決議を採択せざるを得ず、日本軍が少なくとも元の位置にまで引きあげることを要求し、同時(shí)に日本が中國の東北で強(qiáng)引に成立させた満洲國は承認(rèn)できない旨を表明した。しかし、採択された決議は日本の特殊な要求をすでに受けいれており、中國は日本の東北における特殊な地位を承認(rèn)しなければならないと強(qiáng)調(diào)し、日本の東北における特殊な
経済要求を満足させた。しかし、日本はこれに対しても依然として強(qiáng)烈に反発し、公然と國際連盟から脫退した。
日本の野蠻な行為は國際社會(huì)からなんら懲罰されることなく、その中國に対する侵略は逆に一歩一歩深刻化していった。これは別の形で獨(dú)、伊両國のファシズム分子の領(lǐng)土拡張の野望を勵(lì)ますこととなった。1933年初頭、ドイツファシストの首魁ヒトラーが登場し、すみやかに日本の後を追って國際連盟に脫退を通告し、その後すぐに、《ベルサイユ條約》が定めたドイツの武裝解除條項(xiàng)の廃止を宣言し、全面的なドイツ再武裝を開始した。
1935年以後、獨(dú)、伊、日3ファシズム國家は相呼応して同調(diào)しはじめ、四方八方で戦火を巻き起した。この年の 10月、アジアの日本はまず中國の華北で事件を挑発し、さらに侵略の矛先を平津地區(qū)に向けて華北5省を併呑しようとする意欲を燃やしていた。これと同時(shí)に、イタリアはアフリ力の北部でエチオピアに対する侵略戦爭をおこした。國際連盟はこれに対して反対聲明を発表したが、內(nèi)部意見が一致せず效果的な制裁を加えることができなかった。その結(jié)果みすみす自分のメンバー國がイタリア軍に強(qiáng)行占領(lǐng)されるのをただ傍観するのみであった。1936年6月、獨(dú)伊両國は公然と軍隊(duì)を派遣してスベインの右翼
フランコ將軍が惹起した左翼政権打倒の內(nèi)戦に參加した。戦火が初めて英仏両國の眼前で燃えあがったが、両國政府は依然として怒りを抑え、不干渉政策を取り続けた。このため、獨(dú)、伊、日3ファシズム國家は誰はばかるところなく拡張意欲を燃やし続け、ついに1936年10~11月相互條約を締結(jié)し、公然と結(jié)託するに至った。まもなく、イタリアも國際連盟から脫退し、ファシストは全世界の平和?民主勢力と全面的に対立し、新しい世界戦爭が勃発する危険がさし迫った狀況となっていった。
「チャイナネット」2005/04/26