松岡洋右(1880-1946)
山口県出身。元外務(wù)大臣。1900年にアメリカ?オレゴン大學を卒業(yè)後、外務(wù)省に入り、駐中國福州、上海の総領(lǐng)事、関東軍事行政機関外事課長を歴任。1919年にパリ講和會議に參加し、1921年に外務(wù)省を離れて「満鉄」の理事に就任、1927年に「満鉄」副社長に就任。1930年に衆(zhòng)議院議員に選出され、政友會に屬していた。1933年に日本の首席代表として國際連盟大會に出席した。1935年に「満鉄」総裁に就任。1937年に內(nèi)閣の參議に就任、1940年に近衛(wèi)內(nèi)閣の外務(wù)大臣に就任。日本が降伏した時、松岡洋右はA級戦犯と見なされ、裁判の過程において病死した。外務(wù)大臣であった期間、「獨、伊、日三國軍事同盟條約」を結(jié)ぶとともに、汪精衛(wèi)かいらい政権といわゆる「日中基本関係條約」を締結(jié)し、対外侵略政策を推し進めた。
「チャイナネット」資料