このほど、敦煌の文物主管部門は初めて、敦煌で漢字で書(shū)かれた前漢の麻の紙を発見(jiàn)した、という重要な考古學(xué)上の発見(jiàn)を公表した。これらの紙は後漢の「蔡侯紙」より100年以上も早く製造されたと見(jiàn)られている。
數(shù)年前、地元の文物主管部門が玉門関の補(bǔ)修工事の際、小方盤(pán)城の南側(cè)の廃墟で、前漢の麻の紙と見(jiàn)られるものを発見(jiàn)した。その中には、漢字で書(shū)かれた約10平方センチの黃褐色の麻の紙の殘片があった。紙の殘片の文字はきちんとした隷書(shū)であり、「陵叩頭--言-君夫人御者足下也-不審至不陵不—従者景君恵達(dá)恩」(-は識(shí)別不可能の字を表す)と、20字余りがはっきりと見(jiàn)て取ることができた。これらの文字は手紙の一部である可能性が大きいと、専門家は推測(cè)している。比較を通じて、麻の紙の筆跡は漢代の簡(jiǎn)にある筆跡とほぼ同じであることも分かった。紀(jì)年のある前漢の簡(jiǎn)をもとに判斷すれば、漢字で書(shū)かれたこの麻の紙は、漢の成帝劉鷔の綏和二年(紀(jì)元前8年)のものではないかと見(jiàn)られている。そうすると、後漢の和帝劉肇の元興元年(西暦105年)に、蔡倫が製造し、朝廷に報(bào)告した「蔡侯紙」より113年も早いことになる。
敦煌は、わが國(guó)古代の軍事要塞のあったところで、東洋と西洋の文化の交流が絶えず行われたところでもあった。20年前、敦煌の馬圈灣烽燧(のろし臺(tái))の遺跡で、殘存面積の大きな、よく保存された前漢の麻の紙が発見(jiàn)されたことがある。同時(shí)に出土した紀(jì)年簡(jiǎn)により、その中の早い時(shí)期の麻の紙は漢の宣帝の頃のものと見(jiàn)られ、後漢の「蔡侯紙」よりは170年も早い時(shí)期のものである。
今回、漢字で書(shū)かれた前漢の麻の紙の発見(jiàn)は、前漢の頃に、すでに麻の紙が製造されていたばかりでなく、字を書(shū)くためにも用いられたことを物語(yǔ)っている。
「チャイナネット」2006年8月9日