1980年代の文學の社會におけるセンセーショナルな影響力に思いをはせ、現(xiàn)在の文學は「社會の中心から離れてしまった」と嘆く聲を、最近よく耳にする。だがわたしは、これは社會や文學にしてみれば、ちょうど正常なことかも知れないと思っている。(鉄凝?中國作家協(xié)會主席)
1980年代には、人々が感情を表現(xiàn)する手段があまりなく、自ずと文學がその役割を擔うことになった。當時、文學と作家の地位は共に高く、數(shù)億人が1つの小説を爭って読んだこともあった。流派が続々と現(xiàn)れ、スタイルも多様であり、綺羅星の様相を呈した。
あの頃の過熱ぶりと比べると、昨今の文學の輝き、作家の月桂冠の光芒には、いくらか暗いものがある。だが、優(yōu)秀さとセンセーションは、必ずイコールなのだろうか?1980年代から歩みを続けてきた多くの優(yōu)れた作家は、実際には今も落ち著いた勢いを保っており、過去の作品よりもさらに優(yōu)れ、成熟した作品を創(chuàng)作している。
その上、中國の文壇には新たな活力を注ぐ新鋭の作家が絶えず現(xiàn)れており、彼らは知識量、蕓術(shù)的表現(xiàn)力共に當時のわれわれを遙かに上回っている。わたしは以前、インターネット文學賞の審査委員を引き受け、多くの作品に目を通したことがある。彼らはみな無名の作家だが、こうした非営利的な狀況の下で、自分の真情を描き出していた。あの経験によって、インターネット作家の生活狀況と創(chuàng)作実力が理解できた。文學を語るなら、彼らの存在を見落とすこともできないと思う。
中國作家協(xié)會は現(xiàn)在7千人余りの會員を擁しているが、會の外にも、多くの優(yōu)秀な作家がいる。大きな構(gòu)えと大きな情景を抱き、さらに開かれた、寛容な心をもって、彼らに関心を払っていくべきだ。
わたしは文學の明日に対して、非常に楽観的だ?;镜膜时匾瑴氦郡丹欷欷?、人々が次の段階に求めるのは精神的なものだと信じているからだ。文學には有形の力はなく、天地が覆るような変化を社會に起こすことはできないように見えるが、文學とは民族の文化精神の在処なのだ。
確かに現(xiàn)在、全體的に見ると、読者は文學からいくらか遠ざかっている。だが作家も「自分は本當に時代に恥じない作品を創(chuàng)造しただろうか?」と自問してみるべきかも知れない。巴金先生はかつて「文學は光と熱と希望を人に與え、より善良で、より純粋な人間に変えることができる」と語った。作品に光と熱を與えるには、まず作家自身が心の中に光と熱を持つ必要がある。文學は、世界を暖める能力を持つはずだ。
「人民網(wǎng)日本語版」2006年12月14日